Sunday, May 10, 2015

寄生獣 映画

ヾ(*´Å`)ノ【койβαйшα】
今日は出勤日だけど、
最近4つの映画借りたので、
今日から4日間その映画について話す!
では、一日目は寄生獣だ!
といあえず、評価は7/10のところ!
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 あらすじ(Wikipedia参照)
ある日突然、空から人知れず多数の正体不明の生物が飛来する。彼ら「パラサイト(寄生生物)」は人間に寄生し他の人間を捕食していくとともに、高い 学習能力で急速に知識や言葉を獲得して人間社会に紛れ込んでいく。平凡な高校生であった泉新一は1匹のパラサイトに襲撃されるが、間一髪で脳の乗っ取りだ けは免れる。パラサイトは新一の右腕に寄生して同化し、右手にちなんで「ミギー」を名乗るようになり、新一とミギーの共生生活が始まるが…
実写版『寄生獣』を観てきたので感想を書きたいと思います。
期待していた橋本愛(村野里美)の「ギョエ~~~ッ塚原卜伝」は無かったです。
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まず最初に大雑把な感想を書きますと、“原作ファンの自分にとっては"非常に残念な出来でした。なぜ原作に強い思い入れのある自分が残念と感じたのか。その理由をなんとかして言語化していきたいと思います。以下、ネタバレを含みます。
まず映画全体の構成について整理しましょう。原作を映画化する際に尺の都合上や映画ならではの演出のために原作を再構成するのは当然のことであり、必要なことでもあります。問題は「原作と違う」ことそれ自体でなく、その結果どうなったかということです。今 回の映画(part1)が原作のどの時点まで描いているかは厳密に言うのは難しいですが、大体原作一巻(完全版)から4巻まで(新一の母の死、島田秀雄事 件の終結、警察のパラサイト事件捜査の開始、探偵倉森の登場)を扱っています。では何を軸に再構成されたのか。監督である山崎貴のインタビューを参照してみます。
山崎・「種としての人間」「母性とはなにか」という部分はすごく大事なので、その2つを描くために必要なエピソードを残して、それ以外のところは泣く泣く切った感じですね。
とありますが、今回の映画化にあたってより原作を再構成する軸となったのは後者の「母性とはなにか」でしょう。(「種としての人間」というのは全体を貫くテーマですので再構成する必要もないので)新一の家庭の母子家庭化な ど原作との相違点もまさしくこの部分が中心ですし、原作の時系列を変えて新一と母親(パラサイト)の対決の決着を映画の結末においていることからもこれは 明らかでしょう。そしてそのために「泣く泣く切った」のは新一の父親、宇賀さん、加奈関連のエピソードです。(後に述べますが「一人の男として精神的成長 をしていく新一」というテーマも実質的に半ば切られていると思います。)
今回の映画は、こうした「母性とはなにか」をより強調して描くために原作を改変かつ再構成しているのにもかかわらず、むしろその改変と再構成が大きな歪みを生み、結局は原作で十二分に表現されていた新一と母のエピソードがとても残念な出来、もっといえば不快なものになってしまったということに尽きると思います。
それでは以下、映画の感想をまとめていきたいと思います。
・良かった点について
 ①VFXの技術
とにかくVFXによるミギー含めパラサイトの造形は素晴らしかったと思います。異形のものがスクリーン上の現実に存在することがしっかりとした説得力を持って語られていました。とりわけ、『寄生獣』で印象深いコマの一つである劇中初めてのパラサイトの捕食シーンの再現度はとても良かったです。(予告編でもこのシーンは見れますが)
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②一部の役者の演技
新一役の染谷将太の演技や村野里美役の橋本愛の演技など一部の役者さんの演技はとても良かったです。とりわけパラサイト役(島田秀雄)としての東出昌大は持ち前の虚無感漂う顔立ち、佇まい、感情を無にしたような演技が遺憾なく発揮されていて、静がな不気味さ漂うパラサイト感が非常にあったと思います。(余談ですが、劇中の島田秀雄は原作の三木の要素、つまり「笑顔だが不気味」な要素があったりします。)
・良いか悪いか一概に判断のつきかねるところ
①原作以上のスプラッター描写、人体破壊表現
『寄生獣』といえば、もちろん人体破壊描写がひとつの特徴です。映画秘宝のインタビューで山崎貴監督が述べているように、これには強い拘りがあったようです。原作以上に展開される(というか単に実写の映像がきついだけなのかもしれませんが)スプラッター表現には思わず目をつむるほどでした。
"陽気"なミギー
ミギー(cv阿部サダヲ)がとにかく陽気です。これによって純粋な探究心や好奇心でミギーが言うからこそ面白かったセリフなどが、さも面白いことを言ってるような調子で表現されるので、岩明均のシュールなギャグセンスが好きな自分は不満でした。
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それだけでなく、"陽気”なことで新一とのお友達感が漂うようになりました。それに伴いミギーの冷徹さ、怖さが無くなるとともに、お互いが生きるために利用しあっているに過ぎない(厳密に言えば"過ぎなかった”)二人の共生関係の深みも失われたと思いました。が、これは好みの範疇かもしれません。
③田宮良子(深津絵里)の演技
「ワレワレハウチュウジンダー」という感じの非常にわかりやすい演技ですが、それこそ、パラサイトの中でも知能 が高く社会性を持つ田宮良子なのだから、もっと抑え目で良かったのではないかと思います。あれでは実の母親でなくったって「あ…あんた一体誰?」でしょ う。ですがこれも好みの範疇かもしれません。
・とても残念だったこと
以下、「新一の母親関連の話」に絞ってまとめたいと思います。「母性とはなにか」で話を再構成した山崎監督が最も手を入れたところでありながら、最も歪みが大きくなってしまったところではないでしょうか。
母親のパラサイト化の直接の原因を新一とミギーが負ったことの歪み
原作で新一の母がパラサイトになった理由は夫ともに旅行に出かけた時にパラサイトに襲われたことでしたが、今回の映画版では異なります。ミギーと新 一はパラサイトである「A」と自宅付近の商店街で戦い、新一たちがとどめを刺さなかったがために「A」が近くをとりかかった新一の母親に寄生する展開と なっています。つまり、明らかにミギーと新一は母のパラサイト化の直接の責任を負っているわけです。その事自体はまだ良いとして、問題はその自覚がミギーにも新一にも全く無いことです。
原作と比較すると、原作における母親のパラサイト化は旅行先での様々な偶然が重なって生じたミギーや新一の予想の範疇を超えた出来事でした。にも関 わらず新一は結果的に旅行を勧めることになった自分たちの責任を(それこそ父と母が襲撃されたことを知った時点で)強く自覚しているわけです。
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母のパラサイト化の責任をより直接的な形で明確に新一とミギーに負わせているのにもかかわらず、その自覚がミギーと新一にない、もっと言えばおそらく製作者の側にないのは見ていて非常に残念な点でした。
②中盤の母親のパラサイト化をラストまでほったらかしたことの歪み
上述の通り映画中盤で母親のパラサイト化、新一の死、ミギーによる復活という一連の展開が起こるわけですが、ここでこの話は一度進行が止まります。 ラストまで進展はなく、代わりに(原作では母親関連の話のケリがついたあとに始まる)「広川」の市長選挙、続いて島田秀雄の転入の話が始まることになりま す。クライマックスの見せ場として新一と母の対決を用意したということでしょうが、この時系列の組み換えは非常に気になりました。テンポが悪いというだけ でなく、原作の他の話や「日常」が挟みこまれたことで、母のパラサイト化という新一にとって劇中で最も辛い出来事の重みが非常に薄くなってしまった印象を抱いたからです。それこそ、原作の新一が鬼気迫る勢いで仇討ちを遂げに行くことになることと対照的な展開でした。
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劇中、新一の復活直後に置かれた「広川」の市長選後のシークエンスでは"陽気な”ミギーは政治活動をするまでの社会性を身につけた寄生生物の高度化 に対して賞賛の台詞を原作通りに言います。が、直前にパラサイトに母を殺された新一の前でそのような台詞を楽しげに言うミギーの姿には大きな違和感を感じ ましたし、それを平然と聞き流す新一の姿にも同様の思いでした。
パラサイトの中に母親の意志が残っていたことによる歪み
最も残念だった点です。クライマックス、新一はパラサイトと化した母親と戦いますが、ミギーは眠ってしまい一人で戦うことになるのですが、戦いの最中母の顔を見て隙ができた新一に対してパラサイトが攻撃しようとするも、母のボディがパラサイトの意志に反して勝手に動き、その攻撃は大きく外れます。そして新一は自ら母の首を切り、新一は感慨にふけります「お母さんが助けてくれた。」
最も残念な点ですが、あまり多くは言いたくありません。母親の「特別な能力」(田宮良子談)による奇蹟、それが監督の表現したかった「母性」なのでしょうか。
原作の『寄生獣』が表現した新一と母親の物語が、過度に神格化された「母性」の物語として矮小化、陳腐化されてしまったことは本当に残念です。
(12月5日追記)それこそ母の手の『火傷の跡』の話は、鬼気迫る勢いで(パラサイト化した)母の首を刎ねようとした新一がその傷を見て手を止めてしまうからこそ大きな意味があったと思います。(映画の中では、母のボディがパラサイトの意志に反抗するときにスクリーンに数秒、火傷の手が映ることになっています。母の意志が働いていることを観客に象徴的に示すために火傷の話を使ったということでしょう。)
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繰り返しになりますが、こうした点によって、「母性とはなにか」をより強調して描くために原作を改変かつ再構成した今回の映画は、むしろその改変と 再構成が大きな歪みを生み、結局は原作で十二分に表現されていた新一と母のエピソードがとても残念な出来、もっといえば不快なものとなっていました。
その他残念だったこと
・新一の精神的変化・成長、それに伴う葛藤の描写がほとんどない
中途半端に「死んだ犬は犬の形をした肉だ」の場面はありますが、(あの後のシーンが描かれていないのは第2部の回想で明らかになる仕組みなのでしょう)原作で非常に丹念に描かれる(それこそ髪型の変化なども含めて)新一の精神的な変化、成長、そしてそれに対する新一の強い葛藤の描写はありませんでした。『寄生獣』は「種としての人間」「母性とはなにか」以上に「一人の男として精神的成長をしていく新一(とミギー)」の物語と捉えている自分にとっては残念です。
・冒頭のナレーションを田宮良子としたこと
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「地球上の誰かがふと思った…」有名な『寄生獣』の冒頭のナレーションですが、映画では冒頭と最後に壮大な音楽とともに田宮良子が唐突につらつらと言う台詞になっています。特にそういう描写もなかったのですが田宮良子は映画版ではエコロジストなのでしょうか。
・島田秀雄事件
原作ではある種のシンパシーを持った(それこそが精神的成長の証でもあるわけですが)新一の島田秀雄殺しが、単なる「憎しみ」の描写に矮小化されて いたこと。これは、中途半端に原作の「A」と島田秀雄の話を混ぜたことと、母親との対決を後回しにしたことによる歪みも大きいでしょう。
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と、つらつらと書いてきましたがまだ言いたいことを全て書けた気はしません。ですが長くなったのでここで終わりたいと思います。

続編の第二部(完結編)も今出たのでまた映画館で観たら感想書くね!
では、Bye-Bye♪|/// |ω・`*)ノ| ///|ウィーン

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